部活案内

 
     概要
創部 昭和10(1935)年9月10日
流派 和道流
所属団体 全日本空手道連盟和道会
加盟 全日本学生空手道連盟
師範 大塚 博紀
部長 生井 英考
総監督 池田 昌史(1995年卒)(立教新座高校出身)
監督 松本 隆弘(2013年卒)(世田谷学園高校出身)
助監督 黒川 雄太(2014年卒)(埼玉栄高校出身)
コーチ 吉貝 美里(2014年卒)(御殿場西高校出身)
宮武 明宏(2016年卒)(高松中央高校出身)
染谷 研生(2016年卒)(水城高校出身)
加藤 萌 (2017年卒)(湘南工科大付属高校出身)
希代 駿 (2018年卒)(日本航空高校出身)
その他 関東地区一部所属

歴代部長

小川 徳治 (1940〜1943)
中川 一郎 (1947〜1950)
筧 光顕 (1950〜  )
文学部講師 酒向 誠 (1960〜1972)
原 勉 (1972〜1983)
文学部教授 横山 紘一 (1983〜2006)
文学部教授 前田 良三 (2006〜2008)
黄 盛彬 (2008〜2012)
社会学部教授 生井 英考 (2012〜  )


歴代監督

1957年卒 田中 信男 (  〜  )
1958年卒 大竹 崇行 (1968〜1973)
1969年卒 加納 信彦 (1974〜1976)
1973年卒 濱口 裕 (1976〜1980)
1977年卒 牛窪 潔 (1980〜1982)
1979年卒 成澤 章 (1982〜1983)
1977年卒 牛窪 潔 (1984〜1985)
1979年卒 間庭 昇司 (1983〜1984)
1980年卒 伊藤 康夫 (1985〜1991)
1977年卒 牛窪 潔 (1992〜1995)
1992年卒 大毛 篤 (1996〜  )
1995年卒 池田 昌史 (2004〜  )



沿革


・草創期と第一次充実期
立教大学に空手部創立の気運が盛り上がったのは1934(昭和9)年であった。後に和道会最高師範となられた故大塚博紀師範が、当時神楽坂に和道流空手道場を開いたこと を知って浅野靜(相撲部・1937年卒)が同道場を訪れ、立教大学生として初めての門下生となり稽古を始めた。浅野靜は早速学内の柔道部、応援団、ラグビー部などの 学友会(現・体育会)所属の運動部員を集め、大塚師範を立教大学に招聘し、和道流空手の神髄である基本の突き、蹴り、主だった型、約束組手等の演武を行っていただいた。
これがきっかけとなって、師範の演武を見学した学生の中から最初に稽古を始めたのが石橋美徳(応援団・1937年卒)、河野禮三郎(柔道部・ 1938年卒)、山本雅寿 (応援団・1938年卒)、小野房義雄(柔道部・1939 年卒)等、各運動部から集まった15名である。しかし稽古の場所が無く、午後は柔道部及び剣道部の道場の空き時間を 利用し、夜間は神楽坂の大塚道場に通い日夜稽古に励んだ。
この熱心な稽古振りに大学当局も遂に絆され学友会に加盟の武道の一つ として空手部は初代部長・小川徳治教授の下に正式に発足した。石橋・河野両氏は単に空手道の 研鑽のみに留まらず、他の大学との交流の緒を築き、その後の立教大学の第一次充実期の礎をつくっている。
平井英雄、平川午郎、古妻清(それぞれ1941年卒)の3名は稽古を欠かしたことが無く、後輩達の手本であった。欺くして戦中、特に1937年〜 1943年は、創部以来の 第一次充実期となり、部員数も30名に至り、東大、明大、農大、日大、東工大、日歯大等の交換稽古も盛んに行われ、それらの大学と協力して関東学生空手道連盟を結成 した。平川午郎は三船十段より練士号、大塚師範より師範の称号を受けた。また第二次大戦中、南方戦 線のジャングルにおいて、徒手空拳で敵将兵を倒すなど、和道流 空手の神髄を遺憾なく発輝した。終戦間もなく何の前触れもなく、この幾多の逸話の持ち主が道場に復員したのを聞き、誰よりも驚喜なさったのは大塚師範御自身であった。 平川の道場帰り咲きは、大塚師範の頻繁な御来場と御指 導を呼び、また戦中筆者と稽古を共にした当時の強者で、人一倍空手好きの林薫も復員して戦後空手部の復活は 石橋OB会長の下、急速に進んだが、残念ながら平川は復員後二年足らずで病死、大塚師範も今は亡く、その他多数の優秀な戦中の部員が戦死したことは、残された我々に とって大きな悲嘆と損失をもたらした。ここに慎んで戦死者、物故者のご冥福を心から祈っている。
(1945年卒・杉山晏)


・1946(昭和21)年 〜 1950(昭和25)年
終戦後しばらく柔道及び剣道はGHQの通達で禁止の憂いを見たが、空手は運良く難を逃れた。しかし、当時はまだ稽古衣の市販はされておらず、部員はそれぞれ手製の物を 着用して稽古を行った。
部員が相次いで復員、木造道場で戦後の稽古が復活した。日大の道場を拝借して戦中すでに実績のあった立命館大との合同稽古も再現し、自然の 理に逆らわぬ和道流の技とハードに鍛えられた剛柔流の技が激突したのが忘れられない。当時は復員部員が多かったので、新人達には稽古が軍隊式に感じられた。
(山元裕、1951年卒・根元光章)


・1951(昭和26)年 〜 1955(昭和30)年
当初、部員数は20名足らずであったが、後半には30名を超える状況となり、組織も改善された。また道場が如何にも老朽したので、再建の企画を 立てて、 その実現を次の世代にバトンタッチした。
(1955年卒・岡柳栄)


・1956(昭和31)年 〜 1960(昭和35)年
道場の再建が急務となり、石橋OB会長の采配の下に大竹祟行、藤谷信男 等の涙ぐましい努力の結果、新道場が完成し、部員数も増えて第二次充実 期を迎えた。 その頃から同志社大との定期戦も始まった。
(1960年卒・相部淳一)


・1961(昭和36)年 〜 1965(昭和40)年
第二次充実期の余韻が未だ残っており、練習は非常にきつかった。
(1962年卒・関口力男)


・1966(昭和41)年 〜 1970(昭和45)年
部員数は30名を保っていたが、稽古のあり方が空手のスポーツ化に伴って試合中心的なものに重点を置く、変換期の時代であった。 同志社大との 定期戦が定着。慶応大、法政大との交換稽古も行った。大会優勝は残念ながらできなかったが、1967年には和道会全国大会にて第三位、 1968年には 日立明定期戦に優勝した。また 1970年の東日本大会では青学、慶応等を破りベスト16に進出した。
(1970年卒・町野耕一、1971年卒牧野博一)


・1971(昭和46)年 〜 1975(昭和50)年
空手のスポーツ化、荒々しさからスマートさへの転換期であった。昔の考え方と現代人の考え方に対する相互批判の中で毎日の稽古が続いた。 新人の数も減少し、また私達が大塚師範から直接御指導を受けた最後の部員となった。一時、部員は最低8名まで減少、期間中和道会の 関東大会ベスト8が一度あり、他は一・二回戦で敗退が多く遺憾であった。
(1974年卒・門 寛、1975年卒・廣川正一)


・1976(昭和51)年 〜 1980(昭和55)年
40周年の祝賀会を大塚師範の御来臨を仰いで、築地で盛大に行った。当時のOB会長は林 薫であった。戦績面では、立教魂ここにあり、と大学空手界にその名を 轟かすことができた。
1977年に浜口裕監督の下、間庭昇司主将率いる本学はあらゆる大会の上位に食い込み、和道流10大学定期戦で優勝を決め、間庭昇司が最優秀選手に選ばれた。 また同年5月の東日本大会では、日大に敗れて惜しくも準優勝となった法政大学と接戦を展開、大将戦でも勝敗がつかず代表戦を4戦行い、45分という試合時間を 有し惜しくも敗れたが、我々としては史上に残る名勝負だと確信している。
同年11月の大阪で行われた全日本大会において準々決勝において、先鋒成澤が全日本チャンピォンに快勝するなど宿敵日本大学と全日本ベスト4を争った。 1978年には伊藤康夫主将率いる新入部員が10年振りに日立明定期戦優勝の快挙を成し遂げた。1980年には椿山利行主将率いる本学は、東日本大会ベスト8を納め、 第三次充実期を築きあげた。
(1977年卒・牛窪潔)